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【8月14日】決めた日と、それでも止まらなかったもの

  • 執筆者の写真: 勝 添田
    勝 添田
  • 20 時間前
  • 読了時間: 3分

明日は8月15日、終戦の日です。けれど私は今日、その「前日」に立ち止まりたいと思います。

昭和20年8月14日。御前会議でポツダム宣言の受諾が決せられ、その日のうちに連合国へ通告されました。翌日正午の玉音放送は、いわば「結果の発表」です。国の運命を分けた決断そのものは、その前日になされていた。

歴史は、「決まった日」よりも「決めた日」に本質があると、私は思っています。

当時、国内には本土決戦を唱える声も根強くありました。情報は割れ、責任の所在は曖昧で、誰もが自分の立場から正しいことを言う。しかし、誰も最後の一線を引けない。その膠着を破ったのが、あの日の決断でした。


決断とは、選択肢の中から良い方を選ぶことではありません。選ばなかった方の結果まで、まとめて背負うことです。


いま私は、介護の現場で夜勤に入り、成年後見人としてご本人に代わって判断する立場にもあります。手術に同意するか。住み慣れた家を離れるか。財産をどう守るか。どれも、正解の書いてある問題ではない。決めなければ、その方の暮らしは守れない。決めれば、間違いの責任は自分に返ってくる。規模はまるで違いますが、構造は同じだと感じています。


ただ、日本が「決めた」あとも、戦争は終わりませんでした。

日ソ中立条約は、昭和21年4月まで有効でした。それにもかかわらずソ連は8月9日、満洲へ雪崩れ込みます。11日には南樺太、そして千島へと、戦線は北の日本領へ広がっていきました。ヤルタでの米英との密約が、その背中を押していたのです。


そして、8月15日を過ぎても、その進撃は止まらなかった。


8月18日未明、占守島。カムチャツカ半島と海峡を隔てて向き合う、千島列島の北東端の島です。日本軍はすでに武装解除の準備に入り、兵たちは家に帰る日を数えていました。そこへソ連軍が上陸してきます。第5方面軍司令官・樋口季一郎中将は断乎反撃を命じ、池田末男大佐率いる戦車第11連隊「士魂部隊」を中心に、将兵は再び銃を取りました。


旧防衛庁の公刊戦史『戦史叢書』によれば、死傷者は日本側およそ600人、ソ連側およそ3000人。21日に停戦がまとまり、日本軍は武装解除されます。生き残った多くの将兵は、そのままシベリアへ送られました。


この戦いが、ソ連に北海道占領をためらわせた一因になった——そう指摘する声があります。私はこの説を断定するつもりはありません。歴史の評価は慎重であるべきだからです。

けれど、断定を要しない事実があります。


有効な中立条約を一方的に破り、相手が武器を置こうとしているその時に手を出した。 この一点は、どう評価を割り引いても揺らぎません。北方四島が今日なお還らないのも、この延長線上の話です。


条約は、紙です。国際法も、紙です。それを紙以上のものにするのは、守らせる意思と、裏づけとなる力と、交渉を続ける根気だけです。「決めれば終わる」のではない。決めた後に、決めた通りにさせるところまでが、国家の仕事なのだと思います。8月14日という日が私に教えるのは、精神論ではなく、そのきわめて散文的な現実です。


その上で申し上げます。あの日の決断がなければ、今日の日本はありません。後の世から批判することは、いくらでもできる。けれど、情報も時間も限られた中で、国民の命という重さを抱えて一線を引いた人々の重圧を、私は軽々には論じたくない。占守島で、帰るはずだった家をあきらめて踏みとどまった方々についても、同じ気持ちです。


明日は静かに手を合わせます。その前に今日は、「決める」ということについて、考えてお

 
 
 

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